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第7話 夜狩り

Author: なつめ
last update publish date: 2026-09-03 10:43:02

午前1時13分、監視画面の右上で時刻が切り替わった瞬間、廊下を徘徊していた感染者たちが一斉に顔を上げた。

灰乃は椅子から身体を起こし、4分割された映像へ視線を走らせた。午後6時の〈夜狩り〉開始から7時間あまり、低レベルの居室はすでにいくつも破られている。廊下には昼間の争奪戦より多くの血が広がり、感染した元プレイヤーが新たな群れへ加わっていた。それでも少し前までは、それぞれが音や血の匂いへ反応し、近くの居室を無秩序に襲っていたはずだった。ところが今、灰乃の画面に映る個体は、互いに合図を交わしたわけでもないのに同じ方向へ身体を向けている。

その先にあるのは、D-0317。

灰乃の居室だった。

南側通路を歩いていた4体が、すぐそばにあるLEVEL2の扉を通り過ぎる。部屋の中には生存者がいるらしく、扉の小窓の奥で人影が動いていた。感染者はそこへ一度も顔を向けない。その先のLEVEL3からは内部の物音を察知したように警告灯が点滅していたが、6体の群れは足を止めるどころか速度を上げた。

「……おかしい」

灰乃は監視範囲を最大まで広げた。

西側から9体。北側から11体。さらに中央区画を徘徊していた群れまで、進路を変えてこちらへ向かっている。倒れた人間の身体を食べていた個体さえ途中で顔を上げ、食事を捨てて歩き始めていた。感染者に集団行動を取る知性があるという情報は、1周目にもなかった。まして、より弱い居室を無視して防御値の高いLEVEL4だけを狙う理由などない。

灰乃は扉前へ設置していた〈衝撃地雷〉を起動状態へ切り替え、〈局所防御膜〉の残存時間を確認した。昼間に玄理との接触条件で得た防御膜は、扉の中央から蝶番周辺までを淡い膜で覆っている。通常の感染者相手なら一晩を越せるだけの防御があるはずだった。それでも、監視画面へ映る数はすでに40を超えている。

先頭の感染者が灰乃の扉へ到達した。

身体をぶつけるより先に、床へ埋め込まれた黒い円盤が白く明滅する。次の瞬間、空気そのものが膨張したような衝撃が廊下を走り、先頭の数体が壁際まで吹き飛ばされた。頭部を金属壁へ叩きつけられた1体は動かなくなり、別の2体も腕や脚を不自然な方向へ折って床を転がる。

しかし、その後ろから来た群れは止まらなかった。

倒れた個体の身体を踏み越え、扉へ次々と衝突する。爪が防御膜を擦り、半透明の光が波紋のように揺れた。監視画面の端に表示された居室防御値が、98%、96%、94%と減っていく。通常なら感染者1体の攻撃でほとんど動かない数字が、数秒ごとに削られていた。

灰乃は机の上へ銀色の薬ケースを置き、呼吸を整えた。警報音と扉へ叩きつけられる衝撃が重なり、胸の奥では心臓が速く打ち始めている。極端な緊張、睡眠不足、大きな音。どれも彼女の身体にとって歓迎できない条件だった。だからといって、怖いから音を止めて眠るという選択肢もない。

群れを見続けていた灰乃は、1体だけ動きの違う感染者に気づいた。

他の個体より少し小柄で、左肩から胸にかけて昼間のプレイヤー用防護服を着ている。感染したばかりの人間らしく衣服の損傷が少ない。その首の後ろ、布地と皮膚の境目へ、小さな銀色のものが取り付けられていた。

灰乃は映像を拡大した。

最初は金具に見えた。だが倍率を上げると、親指の爪ほどの金属片から一定間隔で赤い光が点滅していることが分かる。システムへ照合をかけると、数秒後に名称が表示された。

〈誘導標識〉

〈対象へ装着することで、一定範囲内の感染体の敵対優先度を指定地点へ誘導します〉

灰乃の表情から熱が消えた。

感染者が自発的にここへ来ているわけではない。誰かが感染したプレイヤーへ標識を取り付け、その目的地を灰乃の居室に設定した。標識をつけた1体を中心として周囲の感染者まで引き寄せられ、群れ全体がD-0317を攻撃している。

1周目には見たことのない道具だったが、用途は単純だった。自分で人を襲えば昼間は報復される。夜間に居室へ近づけば感染者に襲われる危険もある。それなら感染者そのものを武器として送り込めばいい。

灰乃は監視画面を切り替え、群れの進行方向ではなく周囲の部屋を確認した。

2つ先の曲がり角。

消火設備の影。

そこに人影があった。

航志だった。

彼は感染者から十分に距離を取った場所で、床へ大型の機材を組み立てていた。円筒形の砲身と、三脚状の固定具。昼間には持っていなかった装備であり、周囲には小型の蓄電池らしい装置まで並べられている。航志は端末と砲台を接続し、照準器を覗き込みながら角度を調整していた。

灰乃は画面をさらに拡大した。

砲口が向いている先には感染者の群れがいる。

しかし、狙っているのは感染者ではなかった。

照準線は群れの頭上を抜け、その先にある灰乃の扉、その一点へ固定されている。

胸の奥で、心臓が一度強く跳ねた。

航志は感染者に居室を削らせ、防御値が落ちたところへ砲撃を加えるつもりなのだろう。昼間に力ずくで奪えなかった2つの紫箱、LEVEL4の居室、広告恩寵によって得たと知らない大量のコイン。そのすべてを、妻から奪うために。

端末へ個人チャットの通知が届いた。

〈今なら助けてやる〉

灰乃は文章を読んだまま数秒動かなかった。扉の外では感染者が肩や頭をぶつけ続け、防御値はすでに80%を下回っている。続けて、航志から新しい文字が表示された。

〈部屋とアイテムを共有しろ〉

〈俺はまだお前の夫だ〉

その言葉を見た瞬間、灰乃の脳裏へ鉄扉が浮かんだ。

1周目の最後。感染者に噛まれた腕を抱え、安全区域の扉を叩いた自分。小窓の向こうに立つ航志は、泣いて頼む灰乃を見ながら扉を開けなかった。あのとき夫であることは、灰乃を助ける理由にはならなかった。

今、夫という立場は、灰乃の物を差し出させるためだけに使われている。

灰乃は返信欄へ指を置いた。

〈だから何?〉

送信してから数秒も経たず、既読表示がついた。

〈本気で俺なしで生きられると思ってるのか〉

灰乃はその文章を読み、しばらく画面を見つめた。怒りよりも先に、奇妙な懐かしさに似た感覚が胸へ広がる。終末以前から、航志は同じことを形を変えて言い続けていた。

病気があるから1人では危ない。

仕事を減らした方がいい。

遠くへ行くなら自分へ相談しろ。

金を使うなら共有口座からにしろ。

誰と会うのか教えろ。

守っているだけだ。

心配しているだけだ。

最後には、自分を頼ることになる。

けれど灰乃が実際に死にかけ、助けを求めたとき、航志は扉を閉じた。

頼る価値のない相手へ依存していたのではない。頼らなければ生きられないと思い込まされていただけだった。

防御値が57%へ落ちる。

灰乃は〈局所防御膜〉の残量を確認した。衝撃地雷は再充填まで時間がかかり、次に起動できるのは18分後。感染者の数は減らないどころか、破られた低レベル居室から新たな個体が加わり、60体近くまで増えている。

砲台の蓄電表示が上昇していた。

37%。

45%。

52%。

このまま扉へ直撃すれば、防御膜が残っていても耐えられる保証はない。LEVEL4の居室そのものを破壊されなくても、外壁やロック機構へ損傷が出れば、群れが入り込むだけの隙間を作られる可能性がある。

灰乃はアイテム一覧を開いた。

使えるものは限られている。誘導臭カプセルは残っていない。広告恩寵も夜間用の即時防衛品を提示していなかった。コインを使って緊急補修を行うことはできるが、砲撃の直撃と数十体の感染者を同時に防げるほどではない。

心拍がまた速くなる。

灰乃は椅子へ座り直し、薬ケースへ触れた。今すぐ追加服用する状況ではない。必要以上に薬へ頼れば、30日を待たずに残量が尽きる。分かっていても、指先が冷たくなっていく感覚までは止められなかった。

防御値42%。

航志の砲台、73%。

扉の向こうで感染者が密集し、身体同士が押し合う音が聞こえる。監視画面の映像は、灰色の皮膚と血でほとんど埋まっていた。

そのときだった。

群れの動きが止まった。

最初に異変が起きたのは最前列ではなく、最後尾だった。感染者の1体が身体を反転させ、灰乃の居室ではなく廊下の奥を向く。その隣も、さらにその隣も同じように首を動かした。数秒のうちに群れ全体へ変化が伝わり、扉へ爪を立てていた個体まで攻撃をやめる。

監視マイクへ、足音が入った。

一定の速さだった。

走っていない。

息を乱してもいない。

何十体もの感染者が集まる夜間通路を、誰かが真っ直ぐこちらへ歩いてくる。

灰乃は監視画面の倍率を下げた。

非常灯の赤い光の奥から、人影が現れた。

縵谷玄理だった。

昼間に持っていた刃の欠けた大型斧はない。代わりに、両手で扱うほど長い黒色の武器を持っている。銃身にも槍にも見える直線的な形状で、先端には薄い青白い光がまとわりついていた。黒い救助用ジャケットの肩や袖には乾きかけた血がつき、左眉尻の傷跡が赤い照明の下で深く見える。

最初の感染者が玄理へ飛びかかった。

玄理は足を止めない。

黒い武器を身体の前で半回転させた瞬間、低い破裂音が3つ重なった。先頭の感染者3体がほぼ同時に後方へ倒れ、頭部や胸部へ黒い穴が開く。玄理は倒れた身体を踏まずに脇を抜け、その後ろから来た個体へ武器の柄を叩き込んだ。

感染者の顎が横へ弾ける。

次の1体が腕を伸ばす前に、青白い光が喉元を走った。さらに横から飛びかかった個体を身体の向きだけで避け、背後へ回ったところで首の付け根へ武器を差し込む。動きは速かったが、無駄に大きくない。感染者が倒れる場所まで計算しているように、後続の足元へ死体を重ねて進路を狭めていく。

灰乃は映像から目を離せなかった。

1周目にも強いプレイヤーはいた。銃器や特殊スキルで感染者を大量に倒す者も見たことがある。それでも玄理の戦い方は、終末が始まってから身につけた人間のものには見えなかった。敵がどこから来るかを見るより早く、身体を置く位置を決めている。壁、床、死体、通路の幅をすべて使い、真正面から力をぶつけることを避けている。

救助隊員だったという過去を灰乃はまだ知らない。

ただ、壊れた場所へ入ることに慣れた人間なのだと、その動きだけで感じた。

玄理へ群がった感染者が次々と倒れ、灰乃の扉前を埋めていた集団が半分近くまで減る。残った個体の一部は誘導標識の影響で灰乃の扉へ戻ろうとするが、玄理はその中心にいる標識付きの個体をすぐ見つけた。

黒い武器の先端が閃く。

感染者の首元についていた金属片だけが弾け飛び、床へ転がった。

表示が出る。

〈誘導標識・破損〉

その瞬間、残った感染者の統制が崩れた。灰乃の扉へ殺到していた個体が別々の方向を向き、目の前にいる玄理へ襲いかかる。玄理は後退せず、一歩ずつ灰乃の居室へ近づきながら処理していった。

監視画面の別窓で、航志が動いた。

感染者が減っても砲台を撤去する様子はない。むしろ玄理が灰乃の部屋へ近づくほど焦ったように操作盤へ触れ、充電速度を上げている。

84%。

89%。

92%。

灰乃は映像を見比べた。

「やめて」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

玄理は最後の数体を処理し、血の広がった廊下を歩いて灰乃の扉前へ到達した。黒い武器から液体を振り落とし、一度だけ周囲を確認する。それから天井近くに設置された監視カメラへ顔を上げた。

暗い琥珀色の目が、画面越しに灰乃を捉えたように見えた。

「蓼丸」

監視マイクから低い声が届く。

灰乃はモニターへ近づいた。

「聞こえています」

玄理は扉周囲の損傷を一度見た。防御値は27%。局所防御膜も限界に近く、表面には何度も攻撃を受けた跡が白く残っている。

「中から鍵を開けろ」

灰乃の指が解錠パネルの上で止まった。

LEVEL4の居室は所有者以外を容易に入れる場所ではない。玄理が自分を助けに来た理由も分からない。彼を信用できるだけの時間を過ごしたわけでもなかった。

それでも、玄理の背後で再び増え始めた感染者と、監視画面の端で光を強める砲台が見えた。

98%。

99%。

航志が操作盤へ手を置く。

砲口の内部へ白い光が集まり、暗い通路を昼間のように照らした。

玄理も異変に気づき、肩越しに振り返る。

灰乃が解錠ボタンへ指を落としたのと、航志の砲台が火を噴いたのは、ほとんど同時だった。

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  • 『広告を見るだけで終末を無双した私、最強プレイヤーに「その元夫は捨てて。俺と組め」と迫られました』   第12話 死んだ子どもが広告に出ている

    『大好きな家族に、もう1度会いたいですか?』明るすぎる少女の声が、血と消毒薬の匂いが残る居室へ響いた。灰乃は反射的に黒い端末へ手を伸ばし、画面端の閉じる表示を押したが、指先の下で白い印が一度沈むだけで映像は消えなかった。音量ボタンも反応せず、机へ伏せても再生は止まらない。終末前の住宅広告を思わせる明るい居間では、数十分前に玄理自身の手で処置された小春が、黄色いウサギのリュックを背負って笑っていた。画面の中の小春には首の後ろの噛み傷も、発症前に浮かんだ汗もない。頬には健康な赤みがあり、黒髪は左右へ綺麗に結ばれ、その背景には白いカーテンと湯気の上がる食卓まで映っている。窓の外では鳥が飛び、誰かが焼いたらしいパンが籠へ盛られ、終末など最初から存在しなかったような光景だった。灰乃がほんの少し視線を外すと映像は停止し、〈視聴を継続するには広告をご覧ください〉という文字が中央へ浮かぶ。まるで死んだ子どもの姿を最後まで見つめることまで、報酬の代価として要求しているようだった。『今だけ家族再会キャンペーン!』軽快な電子音が弾け、小春の横へ色とりどりの風船が浮かんだ。少女は両手を広げ、その後ろでは顔の見えない男女が食卓へ料理を並べている。母親と父親を模しているのかもしれないが、小春の本当の家族なのかどうか、灰乃には確かめようがない。その画面下へ、報酬欄がゆっくりと開いた。〈最後まで視聴すると安全区域情報を獲得できます〉玄理の顔から残っていた血の気がわずかに引いた。彼は壁際に置いた黄色いリュックと端末の中の少女を交互に見てから、低く言った。「見るな」灰乃は端末を持ち直した。「見ます」「蓼丸」「情報が必要です」「他の方法を探せ」灰乃は答えず、表示された選択肢へ目を落とした。〈スキップする・報酬なし〉と〈最後まで見る〉。安全区域という言葉がどこまで信用できるかは分からないが、少なくともシステムがわざわざ報酬として提示する以上、この高危険区域を生き残るために関係する情報である可能性は高い。目の前にある情報を、苦痛だからという理由だけで捨てる余裕はなかった。灰乃が〈最後まで見る〉を押すと、30秒のカウントが始まった。小春は画面の中央へ座り、白い皿へ桃の缶詰らしい果肉を並べている。黄色いリュックの少女が桃を好きだったことを、灰乃はまだ知らない。それでもあまりにも生活

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